腕時計を手に入れた後から現在に至るまでをもう少し書かせてほしい。その後、男性の元で腕時計の扱いやネットショップ運営について学んだ私は、やがて時計の機械をしっかりと理解したいと考えるようになった。機械工学の知識が皆無のため、ムーブメントの理解が追いつかないことが多々あり、もどかしかったためだ。そして頼らせてもらったのが、時計修理の依頼先だった、水谷時計修理工房の水谷康夫さんだ。
大阪時計の修理について、水谷さんから「戦争のダメージを受けたものばかりで、難しい修理だった。石原さんの依頼を受けた石井さんを通じての仕事だった」とうかがった。この石原さんとは、石原時計店の4代目の石原実さんのことである(石原時計店は、大阪時計の設立と運営に深く関与し、日本の時計産業の発展に寄与した江戸時代創業の時計店)。そして石井さんとは水谷さんの旧友のことであり、NAWCC第131関西支部・日本古時計クラブ(※2019年からは同好会として活動を継続)を立ち上げた石井司朗さんのことである。なお石井さんによれば、関西支部の設立は、時計仲間として親しかった堀田良助さん(株式会社ホッタの3代目)からの薦めだったという。歴史的な話もいろいろとお聞きした。関連リンク:
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話を戻すと、そんな大ベテランの水谷さんに、私は「何でもいいから手伝いをさせてほしい」と頼み込んだが、最初はあっさり断られた。私は素人であり、当然のことだ。しかし恥ずかしながら私は本当に厚かましく、諦めが悪かった。そこから私は時計修理の営業活動を始め、集めた時計はすべて水谷さんのところに持ち込むようにした。そうして工房に通う頻度を増やし、時折静かに修理の様子を見学させてもらった。さらに、ジャンク品を入手して独学で分解修理を始め、その答え合わせを水谷さんにお願いすることもあった。ロレックスの南京虫のオーバーホールにも挑戦した。また工房にいる間、来客や電話対応などの雑用を見つけて勝手に手伝ったりもした。後述するが、この頃、時計学校にも通い始めた。
水谷さんには、当初は露骨に煙たがられた。しかし、そんなことを2年ほど続けたある日、工房へ行くと、水谷さんが私専用の机と椅子を用意してくれていた。そして「好きなもんをバラしていいよ」と、工房で眠っていた時計を、分解修理の練習用にいくつも渡してくれた。大きな機械であれば、修理の手伝いもさせてもらえるようになった。工房には、普通なら博物館でしか見られないような珍しい時計もいくつかあり、それらにも触らせてもらえた。たとえば、大理石を用いた豪奢なウェストミンスターや、猫のヒゲや羊の腸を部品に使っていたような古い時代のもの、明治時代に作られた八点鐘(はってんしょう)の時計などだ。また棺桶のように大きな柱時計を搬入する面白い体験も、何度かした。
水谷さんのところへは、クロノス編集部への参加のため上京する2017年秋まで通い続けた。上京の報告を水谷さんは喜んでくれる一方で、「あんたがこの工房を継いでくれたらいいと思ってたこともあったんやけどな」とも話してくれた。水谷さんへの感謝の思いは、言葉では表しきれない。自分の人生に後悔はないが、もしも過去に戻れるのなら、また思う存分に水谷さんの手伝いがしたい。
私がジャズ好きだということを知り、水谷さんは仕事帰りによく老舗のジャズクラブ「SONE」へ連れていってくれた。写真は、上京を報告した日の帰りのSONEにて。この日水谷さんは、SONEで長年キープし続けていた「ポートピア’81 記念ボトル」のウイスキーを開けながら、「いつか大切な人と神戸に戻ることがあれば、一緒に飲みなさい」「困ったことがあれば、いつでも戻っておいで」と送り出してくれた。
陽光桜が彩る近江時計学校の玄関前。近江神宮は、日本で初めて漏刻(水時計)を用いて時を知らせたことから、「時の祖神」と称される天智天皇を祭神とする。
近江時計学校では、廃止直前だった通信制の最後の生徒として、約2年間学ばせていただいた。月に数回の登校日があり、朝が苦手な私もこの日ばかりは早起きをして、神宮に参拝してから登校するのが習慣となっていた。私の席は、当時1年生だった6名の生徒の最後列に設けてもらった。この6名は出身地も年齢もバラバラだが非常に和気あいあいと仲良く、彼らが卒業するまで私も親しくしてもらい、多くの刺激をもらった。授業では座学から実技まで重要なポイントをしっかりと教えていただいた。多忙のなか丁寧に指導してくださった先生方には、感謝の念に堪えない。私は国家資格である時計修理技能士2級の取得を目標に通い、2016年に無事合格することができた。
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